大恩寺の沿革

天正13年(1585年)豊臣秀吉が叔母(大恩院殿日陽慶春大姉)の菩提を弔うため二条室町西に創建。
開山は天阿岌向上人。 現在も「大恩寺町」と地名が残っている。 永世寺領の朱印を賜う。
天正15年 (1587年) に京極丸太町 (現寺町丸太町下る東側、下御霊神社の辺り)に移転。 寶永5年 (1708年) 3月、大火災になり堂宇焼失後現在地に移る。
現在の地へ移った後も明治維新までは塔頭寺院が三ヶ院も存在した。

現在の本堂は正徳元年 (1711年)第九世源譽代に建立。
本尊の三尊仏は寶暦9年 (1759年) に再興。
平成14年3月本堂大屋修復工事竣工、本尊三尊仏及び脇檀の善導大師像並びに法然上人像を修復。
平成19年10月墓所西塀正面に観世音菩薩石像 (永代供養石像)並びに新墓地造成。

現在に至る。

洛陽阿弥陀四十八願所の第廿二番、必至補処の願所である。
江戸期の蘭学者稲村三伯 (海上随鴎) の位牌と墓がある。 (※鴎は區+鳥) 
日本最古の日蘭辞典「波留麻和解 (ハルマワゲ) 」の著者として有名である。

秀吉の叔母の位牌

豊臣秀吉の叔母の位牌

御朱印

御朱印

必至補処の願所

必至補処の願所

海上随鴎の位牌

海上随鴎の位牌
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